(1)住宅供給に関する規則
現行の分譲制度は「住宅建設促進法(1973-2002)」の下に制定された「住宅供給に関する規則(1978.5制定)」に主に定められている[1]。近年「住宅建設促進法」が廃止されたが、「住宅法(2003)」の下で住宅供給に関する規則は存続している。韓国における住宅供給とは、住宅法に規定した事業主体が住宅建設事業計画、あるいは宅地造成事業計画の承認を受け建設した住宅と福利施設を分譲、または賃貸することである。住宅供給に関する規則に従い、住宅及び福利施設の供給を行うとする供給者(事業主体)と、これらを取り受けるとする需要者は、本規則で定めるところに従って行わなければならない。具体的に供給者は入居者募集条件・方法・手続き、入居金の納付方法・時期・手続き、住宅供給契約の方法・手続き等に適合しなければならない。また需要者も、入居者資格・再当籤制限・供給順位等に適合する必要がある。
(2)先分譲方式と後分譲方式
韓国における分譲方式は先分譲方式と後分譲方式に分けることができる。前者は住宅が完成される以前に分譲する方法で供給者は事業初期段階に入居者からの資金調達を可能とし、建設資金で活用ができる。しかし、需要者にとってリスクが大きくなる。後者は住宅が完成した後に分譲する方法で供給者は自らの資金調達を行わなければならない。供給者にとってリスクが大きくなるが、需要者は完成された住宅を直接確認及び比較することができ、消費者中心の市場形成が期待されるといわれる。先分譲方式は供給者を支援する分譲制度であると言われているが、韓国は民間資金の活用と緊急な住宅不足の解消のために主に先分譲方式の分譲制度を発展させてきた。「住宅供給に関する規則」により基本的に建築工程の10-20%(基準工程)以上から入居者を募集することができる。また、一定の条件を満たせば、着工と当時に分譲も可能である[2]。最近、住宅の量的不足の問題が解消されながら先分譲の基準が強化(1999,改定)され、建築工程の50-67%以上(全体層数の1/2-2/3以上の躯体工事)となっており、後分譲を支援している。先分譲制度が始まったのは、1966年代中頃のソウルの漢江辺に建設された東部仁村洞団地の「漢江マンション(大韓住宅公社、1970)」から始まったといえる[3]。初めに「見本住宅」の登場や広告等のマーケティング活動が行われた。それ以前までは後分譲方式が主流であったが、漢江マンションの分譲がきっかけで先分譲方式が定着してきたとみられる。また、東部仁村洞団地は、韓国のアパートの普及において先駆的役割を果たしたといわれる[4]。新しい住宅型としてアパートは社会的に受け入れられることとなり、政府にアパート中心の持家政策の推進に確信をもたせた契機となったといえる。
(3)アパートの普及
1960年代初に最初の現代的団地である「麻浦アパート(大韓住宅公社,1962-1964)」が建設されたが、当時の生活様式や住居様式からみると、初期のアパートは一般人になかなか受け入れなかった[5]。また、1960年代中頃の庶民住宅の大量建設政策(第2次経済開発5個年計画1967-1971)によって、ソウル市に「市民アパート」が供給され、アパートは庶民住宅のイメージが強かった[6]。さらに、「ワウ市民アパート」崩壊の事件(1970)[7]が発生し、アパートの構造・技術に対する不安感が高まった。こうしたアパートに対する社会的に否定的意識は、需給ギャップや住居環境の改善のための公共のアパートの普及・推進に共に大きな妨害の要因となった。
しかし、公共はアパートの普及促進のために中高所得層向け分譲アパートの供給に取組んだ。当時、社会指導層という公務員を対象とした公務員アパート(1966)を始め、漢江マンション(大韓住宅公社,1970)等の建設が推進され一般人の意識が改善していった。また、ソウル市は最初高層アパート団地である「汝矣島示範アパート(12F,1970)」を建設し、構造的安定性も示した。このような戦略は、1970年以降のソウルの江南開発の礎石となった「盤浦アパート(大韓住宅公社,1971)」の供給にも適用され、社会的に大きく注目を集め大人気となって、「抽籤制」が行われた[9]。「漢江マンション」が建設された以降、プレミアムが付くなど、人気が高く、1970年の民間アパート開発を刺激した。さらに、1970年代初の住宅建設促進法等の制度的基盤が構築され、アパート建設が促進された。1970年中盤から大手企業のアパート事業に本格的に参加し低所得層住宅のというアパートイメージの改善に大きな影響を与えた。これは韓国においてアパートに対する社会的意識の大転換を意味し、今日のアパートという住宅型は大都市のみならず地方でも一般化してきたといえる。
図2-1 韓国の「麻浦アパート(1962,左)」と「漢江マンション(1970,右)」[8]
このように韓国社会においてアパートという住宅型が大人気となった要因には、産業社会化の過程で既存住宅より利便性や居住性が高かった理由もあるが、他の住宅型より建設・供給に関する制度的整備が速く進んだことに加え、社会的にミドルクラスの安定的な居住様式として定着してきたこと、更に需給の不均衡の中で購入後の住宅価格の上昇に伴う資産形成の効果があったことがあったと考える。従って、韓国においてアパートは、諸国のアパートとは異なる経済・社会的な独自性を持っていることに注意する必要がある。しかしながら、図2-2のように大衆社会化の生産・消費様式と都市化の高密居住という産業社会化の流れの中に取り込まれた都市及び住宅の急速な変化を象徴的に表している。即ち、新しい住宅による物理的質の向上を示すことができるが、必ずしも適正な都市居住文化が形成や成熟してきたとはいえない。質の時代を迎えた韓国社会は、都市住宅の質に関する価値の問題に直面しているといえる[10]。
図2-2 韓国の盤浦1団地(1971,左)が現在の建替えの後に超高層化された全景(2008,右)[11]
[1] 1960年代初の住宅公営法(1963.11.30制定)から始まり、大韓住宅公社(1種)地方自治団体(2種)が建設した公営住宅は公開募集を原則として主に無住宅者(や賦金償還可能者)が対象とした。しかし、住宅市場に対する法的・行政力を強化させ、基本的に民間主導的供給体制を志向したものである。1970年初の住宅建設促進法(1972.12.30制定)より住宅概念が民営住宅から国民住宅に変化する。国民住宅は40㎡-85㎡で、無住宅者に1世帯1住宅の原則に公開募集により供給されることとなった。
[2] 先分譲は、2か所の業体の連帯保証が必要であり、特に着工と当時に分譲は大韓住宅保証株式会社分譲保証が求められる。
[3] 参考文献8)によると、漢江マンションは先分譲制度の出発点を示している。
[4] 参考文献9)と10)によると、ソウル市の東部仁村洞には、1960年代中盤より漢江公務員アパート団地(1312戸)、漢江マンション(700戸)と外国人アパート(500戸)が建設され、3千戸の大規模団地が造成された。比較的に高級であり、ミドルクラスに人気があった。また、大規模の団地や供給対象の構成、建築計画等において、以後の10年間の漢江の江南地域に大量建設されるアパート団地の供給に影響を与えた(GELEZEAU)。また、最初の立式生活を基づく設計され、食寝分離を実現、南方配置、中央温水暖房方式等が導入された(KIM)。
[5] 参考文献8)によると、1962年-1972年間のソウル地域に総4万戸のアパートが建設されたが、政府の資金不足で庶民住宅建設のための財源支援は自治体に集中されており(公営住宅法,1963-1972)、大韓住宅公社は政府の財源支援がうけないで中所得層向けの住宅供給に主力した。
[6] 参考文献8)によると、1969年-1971年、3年間2千棟、総9万戸の建設計画があったが、1970年4月の「ワウアパート崩壊の事件」で中断され、ソウル市内32ヶ所に総426棟16,963戸の市民アパートが建てられた(JANG,1994)。
[7] 参考文献11)によると、都心再開事業として行われた市民アパート1969年12月に竣工された「ワウ市民アパート(ソウル市)」が、1970年4月8日の今朝6時頃にコンクリト5層の1棟が崩れ、32名が死亡・39名が重軽傷を負ってしまった(LIM)。また、参考文献9)によると構造欠陥による事故であったが建築行政の問題(不正腐敗)が大きな原因となった。それは、人災にもかかわらず、アパートのそのものの欠陥によることと認識された(GELEZEAU)。参考文献11)によると、(この事件で)低所得層を対象とした庶民のための市民アパートの建設が中断されたと共に、アパート供給政策において低所得層から中所得層への対象転換に影響を与えた。
[8] 写真出所:大韓住宅公社30年史,大韓住宅公社(1992)
[9] 参考文献11)によると、1970年代の新ミドルクラスの増加とともに都市において住宅の需要が急増しアパートが大人気となった。また、当時のソウルにおいて分譲アパートの競争率は40-70対1であって高かった。
[10] 参考文献4)と5)によると、住宅の質の検討は、価値の問題を回避することができないため、対象の空間的スケールやこの主体の立場を考慮して質の規定が行われる必要があり、個別的価値(A)と社会的価値(B)の最適化が目標となる。Aは個人的欲求の実現、Bは効率性(住宅の社会資本的機能の整備が目標)と公平性(住宅の社会福祉的機能が目標)の基準により整理することができる。従って、住宅の質の向上とは住宅・住環境の物的・空間的広がりの中で様々な段階における個別的価値及び社会的価値を最適化することである(高田,1991)。また、既存の家にはいろいろ問題があり、家を建替えた方が合理的だと考えられる理由もあるが、建替えられた家は長く住み続がれてきた家よりも素晴らしく、明らかに高い価値を持っているとは必ずしもいえない。問題は家の側より人の側にあり、家の価値は家と人の関係の中で定義され評価される。人の価値観が変わらなければ、スクラップ・アンド・ビルドを支える社会の仕組みは変わらない。スクラップ・アンド・ビルドがら脱出するには、住まい方を育て、家と人との相互の関わりのなかで得られる「居住価値」を実現する必要がある。また、居住価値と共に資産価値が重視されるべきである。資産価値の重視は投資手段より他者(家を住み続ぐ人、地域社会)の価値を考慮することにつながるからである。異なる価値観との共生を前提とした資産価値は家の価値の重要な要素である(高田,2009)。
[11] 写真出所:大韓住宅公社30年史(1992),S社の分譲カタログ(2008)